レポートの書き方


レポートの意味・背景

工学部に所属した以上、 演習や実験などでレポートの提出を 何度となく求められることになる。

簡単にいえば,レポートをかく時には,

  1. 誰がそれを読むのかきちんと把握し、
  2. 必要かつ十分な情報をしめす.
ことが重要であるとされる.

そうはいっても,「レポートを書く」という作業は、恐らく、 大学に入って初めて要求されるものであろう. 何を書いて良いのかわからないまま、 「とりあえずなんか出しときゃいいだろう」と 思ってる者もいるだろうが、 実はそんなに簡単に考えてもらっては困るのである。


レポートとはもともと何であるか

工学部を卒業したら、 ほとんどの人が技術者あるいは研究者として社会に貢献することになるが、 その時の仕事は報告書(=レポート)を提出して初めて完了する (=どんなに素晴らしい調査研究をしても、 出力がなければ何もしていないのと同じ)。

このような状況では、課題(調査の依頼など)を出した者 (上司や指導教官など)は、 課題の答については全くの無知 (酷い時には,時間が経つと課題を出したことを忘れていたりする) である. また,報告書を将来の同業者たち(数ヶ月後の自分を含む)が, なにかの参考に目を通すかも知れない. このような場合にも,やはり読者は無知であることを想定しなければならない.

したがって,報告書は、 「何も知らない人が読んで解る」 ことが非常に重要である。 (読んでわからない報告書は、結局、同じことを一から調べ直すはめになるので、 役に立たない。)
「読んで解る」とは、もっと詳しくいえば、
「課題が何であったか」と 「課題に対する回答」と 「その解答に至った根拠」とが示されている ということである。


大学のレポートは「時間が自由に使える筆記試験」ではない

ところで、大学で学生にレポートの提出を求める場合、 原則として、 課題を与える教官は答を知っている (ええ、一応そのはずです)のであるから、 「課題の答を知りたい」と思って課題を出したり, 「なるほど,そういうことだったのか!」などといいながら レポートを読んでいるわけがない。

では、なぜ大学ではなんのためにレポートを書かせるのか? なにが要求されるのか? 分析してみよう。


(出題者が)課題の答を知りたいのであれば, 同じレポートが複数の人から提出されても, 何の問題もないはずですよね? でも全く同じレポートが提出されると, 大学では 「これじゃダメだよん」 って言われる.それはなぜか.

教官はレポートに基づいて,成績をつけている. つまり,レポートを書いた「個人」にかかわる何かを評価している. それはいうまでもなく, 「学生が理解しているかどうか」である.

つまり大学で提出するレポートの場合,

「課題が何であるか」と 「課題に対する解答」と 「その解答に至った根拠」
に加えて,
「上記の3つを自分は理解していること」
を伝えなければならないのである。

だから,「課題とその解答」がどんなに正しくても, 「ははぁん、どこかのを丸写ししてきたね?」 となると,単位がでない危険性が高いのである。

念のため繰り返すが, 「自分が理解していることを伝えなければならない」のであって, 「理解している」だけではだめなのだ. つまり,たとえ実際には完璧に理解していたとしても, そのことを教官に伝えることができなければ、 「理解していない」と判断されてしまうのだ。

そういう意味では、単に解答があっていれば良い (というとかなり語弊があるが) 筆記試験と比べると、 レポートに要求される水準のほうが はるかに厳しいことがわかるだろう。


さてそこで、一つの疑問が出るはずである。
学生が理解しているかを調べるだけならば, 筆記試験でいいじゃないか。
なぜわざわざ理解しててもそれがわかりにくい レポートを課すのだろうか.
ここに至って、ようやく大学におけるレポートの正体がわかる。 すなわち、 (通常の筆記試験ではなく)レポートを提出させるのは、
「自分の考えを、紙の上だけで表明する能力を養う」
ためなのだ。

「紙の上だけで」というのは、きっと君らが考えているより重い条件である。 これはすなわち一発勝負であり、 それで言いたいことが伝わらなくても、 弁明したり補足したりする機会がない、ということを意味する。 (でも、そんなことを意識している出題者は少ないかも知れない ...)


余談であるが、口頭試問は 対話的に理解度を確認する作業であるから、 相手に伝わっているかどうかを確認しながら, 補足したり言い直したりできるので, 理解していることを伝えるチャンスは 実はレポートより多いのである.


次へ
Last Update on