立法の経緯

昭和47年5月に、通産省重工業局ソフトウェア法的保護調査委員会中間報告が 出された。同報告書は、先進的なソフトウェアの開発資金を確保し、保有されている ソフトウェアの活発な流通をはかり、効率的な情報化を達成するための条件の整備を 目的としている。そのためには不正な使用や盗用を禁止すれば足り、他人が資本を 投じて同じものを開発することまで禁止する必要はない。つまり、プログラムの アイディアまで独占的に保護する必要はない。その目的に従って、登録制度、 形式審査主義、プログラム概要書の公開、仲裁又は調停制度、短い保護機関を 提唱している。

これに対し、昭和48年6月に文化庁著作権審議会第2小委員会 (コンピュータ関係)は、プログラムは著作権法で保護しうるという基本的視点に 立ち、若干の問題点の検討をなしている。

次いで、昭和50年12月に、特許庁は「コンピュータ・プログラムに関する発明に ついての審査基準(その1)」を発表し、プログラム言語、コンピュータで 処理されるデータ、ドキュメントには発明性はないが、ハードウェアと一体になった ソフトウェア等については特許が付与されることを明らかにし、現にこのような 特許は多数登録されている。

以上のように、ソフトウェアの法的保護の問題は、昭和40年代の後半から 議論されてはいたものの、ソフトウェアをめぐる現実のトラブルは比較的少なく、 潜在的問題にとどまっていた。ところが、昭和57年に日立一IBM事件が 発生して、ソフトウェアの法的保護の問題が注目されることとなった。 それに前後してゲームのプログラムを中心とした侵害事件が 多発し、昭和57年12月6日には東京地裁でプログラムに著作物性を認める 最初の判決が出された。

これらの判決を契機にソフトウェアの法的保護の動きも活発化し、通産省と文化庁で 各々新規立法と著作権法改正の提言がなされた。 まず通産省は、昭和58年12月に産業構造審議会情報産業部会中間答申を受けて、 プログラム権法立法化作業をはじめた。同答申の趣旨はつぎの通りである。

の3点が重要かつ緊急の課題となっている。そのためには、1.ソフトウェアに関する 権利の明確化、2.ソフトウェア情報の提供、3.ユーザの保護を一体として 取り引きの基本ルールを確立する必要がある。そして具体的には次のような諸点を 主張している。まず、プログラムは使用されてはじめてその価値を発揮するもの であり、かつ実務界においては使用権という概念が定着しているので、著作権法 にはない使用権という概念を導入し、新規立法の中心にそえる。その他、改変権、 複製権、貸与権を設ける。著作権法で認められている人格権は、プログラムのような 経済財の開発・流通を阻害するおそれがあるため設けない。権利の発生時期を明確に するために、登録を効力発生要件とする。権利の存続機関は特許権と同じく 15年程度とする。特許法と類似の裁定制度を設け、 利用関係の円滑化をはかる。プログラムの紛争は高度な専門的知識を必要とするので、 その専門家をプログラム審査員に任命しておき、紛争解決に利用する。また、斡旋、 調停、仲裁、のような裁判外の紛争解決手段も設ける。

このような通産省の考えに 対し、文化庁著作権審議会第6小委員会は、これと全く異なった中間報告を、 昭和59年1月に提出した。その内容は次の通りである。

プログラムは、 ファームウェア化されたプログラムに至るまで、著作物性が認められ、したがって 著作権法が適用される。このことは現行法上も明らかであるが、より明確にするために 著作物の例時規定にプログラムを明示し、これに関連してプログラムの定義規定を 設ける。法人著作の規定は、解釈によってのみでは実態に対応し切れない 面があるので、法人著作の規定を整備する。バージョンアップなどについて 同一性保持権の適用除外の規定を設ける。プログラムの実行について新たな権利は 認めないが、情を知って違法に複製されたプログラムを実行するものは著作権侵害 とみなす旨の規定を設ける。プログラムの複製物の正当な所持者による実行・保存 のための複製・翻案を認める。

通産省案と文化庁案は真向から対立し、収集がつかない情勢にあった。その均衡を 打破したのは外圧であった。すなわち、すでにプログラムを著作権法で保護することを 明確にしているアメリカが、通産省案に極めて強行に反対し、この問題は日米貿易摩擦 の象徴的存在とされてしまった。通産省もついにプログラム権法の立法化を断念し、文化庁の著作権法 改正案だけが残り、昭和60年6月に国会を通過して、昭和61年1月1日から 施行されることになった。